リンゴガール


【第0回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - Novel Cluster 's on the Star!

 

はてなダイアリーをどうしようかなと思っているところに、興味のわく企画があったので、はてなブログを始めるきっかけに参加させてもらうことにしました。初心者丸出しですがよろしくお願い致します。

 

*****

 

「あ、アップルパイ。あたしあとコレにしよう。」志歩はトレーを持つ樹に向かって、そう声をかけた。
土曜日の昼。アパートから目と鼻の先にあるパン屋。夫の樹とふたりで掃除と洗濯を済ましたところで時計は11時になろうとしていた。「冷蔵庫に何もないし、お昼はパンでも買ってくる?」どちらからともなくそう決めてこの場所に来るのは、よくあることだった。
「じゃあおれはあとコレでー。」樹が独り言のようにそう言い、トレーにアップルパイとメロンパンを乗せてレジへ向かってゆく。娘の真尋を抱っこした志歩は、店の入り口近くで会計に並ぶ樹を待つことにした。見知らぬ中年女性の声がしたのはそれからすぐだった。「あら~笑ってくれるの。かわいいわねえ。ふふふ。」入り口脇の陳列棚の前に居た彼女に、いつの間にやら真尋が笑いかけていたらしい。「よく笑うのね。どうもありがとう。」当の真尋にか抱える志歩にか、そう言って彼女もまたレジへと向かっていった。
「お待たせー」と言って、パンの入った袋を持った樹が近づいてきた。「今ねえ、また真尋がよその人に笑いかけてたよ。」志歩がそう報告すると、「おお。真尋は今日もニコニコかあ、えらいなー!」と樹もまた笑って真尋に向かって話かけた。褒められたとわかっているのか、今度は声をあげて笑う真尋と3人で店を出る。
真尋はとにかく愛想のよい子だった。電車の中で、スーパーの中で、児童館の中で、志歩に連れられて出かけた先々で見知らぬ人に笑いかけては、一言二言と話しかけてあやしてもらうのが日課のようになっていた。志歩がそうした出来事を話すと、樹は「そうかそうか」といつも嬉しそうにしていたが、志歩の方は少し違っていた。

笑いかける娘はとても愛らしく頼もしくさえもあるのだけれど、あまりに無垢に心を開いている姿に、不意に申し訳のないような気持ちになることがあった。さっきの中年女性に曖昧な笑いしか返せなかったように、電車の中で、スーパーの中で、児童館の中で、元来コミュニケーションをとるのが苦手な志歩は顔を強ばらせてしまうことが多かった。この自分の強ばっている心が、誰にもニコニコと笑いかけている真尋の心に、重ねた胸からだんだんと伝わっていってしまいそうな気がしていた。
「ただいまー。あー動いたらハラへったなー。」帰宅して、買ってきたパンにすぐ手を伸ばそうとする樹を制して、志歩が言った。「あ、真尋の離乳食が先。準備するから今日は樹があげてよ。」「あ、そうなの?了解~。」答える樹の声を背に、志歩は冷蔵庫からリンゴを取り出してすり下ろし、冷凍しておいたおかゆにささみや野菜を合わせてテーブルに運んで言った。「今日からりんご食べさせてみる。甘いから食べるかな。」「そっか。今日はデザートがあるぞ~真尋。」そう言う樹に真尋のことは任せ、志歩は二人分のコーヒーを淹れ始めた。

しばらくすると「あれー?おまえりんご嫌いなのか?」と樹が不思議そうな声をあげた。コーヒーカップを取りかけた手を下ろして志歩が様子を見に行くと、真尋は眉間にしわを寄せ、口をへの字にして食事用の椅子に座っていた。「ぷはっ。なんて顔してるの真尋。」その顔を見て思わず吹き出した時、志歩の頭に急に小さな頃の記憶が蘇った。母が買ってきたアップルパイを食べた時の事だ。砂糖のかかったパイ生地の後にやってきたりんごの、その唐突な甘酸っぱさに裏切られたような気がした時のことだ。精一杯の乳児の主張を続ける真尋に、志歩は言った。「そうだよね。りんご、真尋には酸っぱいよね。」
そうだ、りんごは甘酸っぱい。そう思った瞬間、志歩の胸の中に小さくすとんと音がした。真尋だって笑ってばかりいる訳ではない。こうしてしっかり嫌な顔だってするのだ。何の陰りも毒も持たない顔で、志歩に、樹に、見知らぬ人に、大きく小さく幸せを振りまいている真尋だけれど、真尋にもしかめつらをする心が既に備わっているのだ。真綿のような真尋のことを、柔らかくきれいなものでずっと包んでいたいような気がしていたけれど、志歩がじっと見つめている前でなくても、目を離しているわずかな間にも、真尋はずんずんと変わっていくらしい。

これから先、意地悪をする友達や、淡い思いを抱く人、いろんな人にも出会いながら、笑うばかりではない日々に真尋は出くわしていく。そうしていつの間にか、りんごの甘酸っぱさをおいしいと思う日も来るのだろう。

志歩の方だって、知らない人から真尋を通して声をかけられた時、戸惑いこそすれ悪い気持ちではなかった。そこには娘を褒められたような喜びも、小さな親切への感謝もあった。そして素直に相手へ「ありがとうございます」の言葉が口から出た時もあった。今こうして胸に抱く真尋から伝わってくる温もりを、少し微笑む勇気にかえてみることもできるかも知れないと志歩は思った。

2杯目のコーヒーを入れに樹が席を立った時、アップルパイをほおばる志歩とそれを不思議そうに見る真尋の目が合った。「大きくなったら、二人でおいしいアップルパイ食べようね。」そう言う志歩に向かって、真尋がまた声をあげて笑った。